ほろ苦い桜の思い出

桜といえば思い出す言葉があります。写真を学び始めた当初、写真の先生に言われた一言。「こんなのを撮っていたってしょうがない」。ハイキーでボケを大きくした桜の写真に対しての批評でした。

 

毎回、講評会では写真20枚をポジで提出しますが、自分のお気に入り作品から順番に作品を並べることになっていました。そして私はその桜の写真を、自信を持って先頭に並べたのですが、返ってきたのがその言葉だったのです。

 

当時、先生の指導は大変厳しく、35ミリの小さなフイルムの1ミリ単位にこだわるものでした。そして今はデジタルカメラで撮影すれば画像を加工することも可能ですが、作品の忠実性をとても大切にされ、決してトリミング(カット)は許されませんでした。従ってシャッターを押す時は小さなファインダーの中を隅々まで見渡し、余分なものが入り込まないよう十二分の注意力、慎重さが要求されたのです。

 

確かに先生が教えてくれた技術は、写真の作品性を高めてくれました。しかし何年も撮り続けるにつれ、見栄えのよい作品作りに励むことへの窮屈さを感じている自分に気が付きました。反して、ボケ具合やオープンスペースを非常に大きく写した花や心象風景、ファインダー越しに見える非現実的な世界は、私に現実感を忘れさせ、イメージの世界で遊ぶ楽しさを教えてくれたのです。

 

そんなときに「こんなもの撮っていてもしょうがない」と言われたボケの大きい桜の写真。

 

私は自分の心の世界を先生に共感してもらえず、とてもショックでした。そんな私を気遣い、先輩が「気にしないほうがいいよ。その写真とても素敵だから」とかけてくれた言葉に、心救われた思いをしたことを覚えています。

 

その後、私はNPOを立ち上げ、先生のもとを離れました。

 

あれから10年が過ぎようとしていますが、先日、ふと先生の言葉を思い出してこう思いました。

 

もしかすると先生は写真をとおして「人の生き方」そのものを指導されていたのかもしれない、と。

 

「現実は時として大変厳しい事実をつきつける。いつも美しい風景ばかりではない。しかしそんな現実をありのままに見つめ、しっかりと受け止めることが大切なのだ。現実から逃避して、空想の世界に入り込んで遊んでいたってしょうがない」

 

もしそうであったとしたら、今の私はこのように応答したいと思います。「生きづらい世の中だからこそ、時には現実逃避し、空想の世界、イメージの世界で遊んだって構わないではないか。そこで元気や癒しをもらい、改めて現実に立ち戻り、また日々の生活を生きてゆけばいいのだから」

 

童心に戻りイメージの世界で遊ぶこと、自由に創作活動を楽しむこと。これを心理学では「創造的退行」ということを後日知りました。心理臨床大辞典によると、創造的退行は「健康な自我の一時的・可逆的な退行現象であり、リクレーションや冗談、創造活動などで働き、自発的な創造性が高まり、自我自律性を促進するもの」と書かれています。「自我自律性を促進する」これは自分が自分であることを築いてゆく、力強く生きてゆくうえで非常に大切な要素です。そしてこの創造的退行を治療的要素として活用するのが「遊戯療法」や「芸術療法」です。

 

写真というイメージの世界で遊ぶこと。現実世界の苦しさを苦しいものとして写し取る「ドキュメンタリー」ではない、自由な心の表現としての写真活動。私は芸術療法の一手法として「写真療法」を提唱、実践していますが、私の原点となっている体験がここにあります。

 

そして、そのように「空想やイメージの世界に浸りきること」の<危険性>を学んだのは、先生からそのような厳しい言葉を頂いてから10年たった時でした。

 

この危険性については、またいつか、お話したいと思います。